【歴史】江藤新平と自分
今日唐突に思い沸き上がって久しぶりに江藤新平のことをTwitterに書きなぐってしまいました。ちょっと長文になってしまったので、最初からWEBサイトかブログにでも書けばよかったですね。以下修正を加えたまとめです。
−−−−−−−−ここから−−−−−−−−
これまであまり書かなかったが、僕は幕末維新史にものすごく執心していた時期があった。
もちろんいまでも頭の片隅にウズウズとしている維新史への憧憬の念がある。
自分の青春の階段には歴史小説がむやみに散らかっていたし、関心はいつも日本人の近現代の歩みのことだった。
現代「政治人」たちはいつも近現代史とかつてを生きた人々を政治の材料にしか使わないが、すくなくとも僕にとっちゃ自分を考える基盤だった。
別に「エライ人を見習って」などという軽薄な話じゃなくて。
そう、例えば僕は江藤新平の人生と足跡をたどるために学生の頃やたらと佐賀を歩きまわった。
江藤新平は教科書的には「佐賀の乱」の首謀者として処刑されたという表記に終始して、日本史の主人公に取り上げられることは殆ど無い人物だ。でも、司馬遼太郎の『歳月』を読んでこの人物のことをよくよく考えこんでしまったのがハタチの頃だった。
彼の生き方はお世辞にもかっこいいとはいえない。
▼ 江藤新平の生い立ち
極貧の下級武士の家に生まれ、学問至上主義の佐賀藩ゆえに苦学して学を極めるが、身分低きゆえに世に己を問うすべを見いだせず。時代は風雲急を告げる幕末。藩は二重鎖国を標榜した保守体質、鍋島家は幕府寄りの思考で、そこが江藤にはたまらなかった。勃然と脱藩を決意し京へ向かう青年江藤。
独自に人脈を作り、情報を収集して「京師見聞」をまとめて帰藩、藩主にそれを献上する。脱藩は死罪が通例で、一族親類にまでその罪の影響が及ぶほどの重罪だった時代。しかし江藤は、藩主鍋島直正は自分の思うところを必ず理解すると信じた。そして彼は死罪にはならなかった。謹慎と相成った。
江藤は戊辰戦争までの間謹慎を命じられていたというが、近年では、謹慎期間中に藩主の命を受けて情報収集の旅をしていたことがわかっている。鍋島閑叟こと直正は佐賀藩存亡のために江藤の存在を重要と判断していたのだった。同藩出身の大隈重信、副島種臣、大木喬任などは表舞台にいる。
▼ 江藤新平の業績
戊辰戦争勃発。佐賀藩は倒幕への一歩を最後まで迷ったが、決意して鳥羽伏見以降、軍事力を幕府軍征討に投入する。江藤はそのつなぎ役を務めた。彼の急坂を駆け上がる人生の大流転はここから始まる。大久保利通らが大阪遷都論を掲げる頃、江藤は江戸へ潜入し同藩の大木喬任らとともに江戸遷都論を唱える。
戊辰戦争が関東から東北へ戦火を飛び火させる中、江戸では西郷隆盛と勝海舟による無血開城の会談が成立。江藤は官軍に接収された江戸城に入城すると、すぐに公文書類の収集にあたった。彼は戦争よりも、次の時代の組織体制と制度類の整備を自分がやるのだという気概で動いていた。
戊辰戦後、佐賀藩の制度改革を経て、太政官政府に出仕。名実ともに国政に参与する立場を手に入れた。彼は在職期間中におびただしい数の制度を作り、法整備を強力に推進。その間江戸は江藤の建言により東京と改称している。明治維新の時点で彼は35歳。
身分差別の撤廃、司法制度の整備、三権分立の推進、フランス憲法の研究など、彼が在職した明治6年までの約5年間、彼は凄まじい仕事ぶりで日本の近代化を制度面から推進した。多くの問題が山積し未だ混沌を抜け出せぬ政府運営のさなか、彼は西郷隆盛の征韓論に与し、西郷とともに道半ばにして下野する。
▼変転する人生、江藤の最期
江藤が再び国政に返り咲くことはなかった。各地で新政府のありように不満を持つ士族たちが決起しようとくすぶり続けていたし、彼の故郷佐賀もその例外ではなく。彼は帰郷して不平士族の説得を誓うが、参議(当時の国家最高職)にまで上り詰めた江藤を、むしろ故郷の士たちは期待の眼差しで見つめた。
彼は佐賀において不平士族により結党された征韓党の領袖に推され、そのまま反乱軍の首謀者とされた。政敵大久保利通は江藤が東京を離れた時点で佐賀征伐準備をスタートしたといい、これを機に再起不能に陥れようと考えたのだった。佐賀の乱は政府側の挑発により開戦し、数日で政府軍により鎮定された。
江藤は逃亡の途につき、鹿児島に西郷を訪ねて決起を断られ、ついで土佐の林有造を訪ねてここでも決起を拒否される。そして彼は路頭に迷い、土佐甲浦で捕縛される。佐賀へ送致され、佐賀裁判所で一方的な裁判により、彼は除 族の上斬首さらし首という旧幕時代の極刑を言い渡される。江藤新平41歳。
近代的裁判制度や法整備に心血をそそいだ彼は、政敵の手によりそのすべてを否定される形で生涯を終えた。彼が編纂を手がけた新典(新法制度)の適用を受けず、旧典による処刑は無念以外の何物でもなかったろう。こうして彼の事跡は途絶え、歴史の流れの中から姿を消した。
▼江藤のこと、自分のこと
こういう、あまりに生き急いだとしか言いようのない、激しすぎる人生の流転をどうにも自分は消化しきれず、ゆえに彼への関心を抑えきれずに佐賀をめぐり、彼の墓所も尋ねた。今でもなお、江藤の人生の激しさを思うにつけ、自分の生き方を思い直すことがある。同じように生きたいという願いからではない。
ただ人間というのは、自分が生きたいように生きようと思っても容易にそれは成し得ないし、死ぬべき場所やタイミングも何もかも自分では決められないのだ、ということを思う。浮世の些細な事で一喜一憂しながら何を瑣末なことで右往左往しているのかと自分を叱る。
時折、自分の10代20代に一生懸命に考えたことどものことを思い起こしては、まだ自分は考えつくせていないなぁ、とか、あきれるほど時間を無駄にしているなぁなどとぼやく。歴史上の人物や出来事は、それ自体が完結したものであっても、後世にいろいろの形で伝播して、様々な作用をひき起こす。
そんなことをぼんやりと考えながら、久しぶりに記憶の糸をたどってみた次第である。乱文失礼。
−−−−−−−−ここまで−−−−−−−−
なんだか、モード切り替わってしまうようです。
1997〜99年ころに幕末維新史をテーマにしたWEBサイトを構築していたことがありました。 ある掲示板コミュニティ(2chではありません)でもテーマ主催をして同好の方々とオフ会などをよく行なっていました。あの頃、自分は20代を迎えたばかりの人生に惑う年頃で、よむ本、聞く話、出会う人など、周辺で起きうるあらゆる事象に敏感だったことを思い出します。
その頃に出会った小説『歳月』は司馬遼太郎さんの作品の中でも佳作と思いますが、これが私には強烈なインパクトがあって、つまり端的に申しましてショックだったのです。正直江藤新平という人間を本格的に知るに及んだのはこの作品ででした。
彼の生き方は不器用で無様で、そして愚直で、小説中の江藤に好感を抱ける要素はなんだか少ないようにも思われ、でも一貫した生き方には鬼気迫るものが感じられた。
なぜ彼はこうまで悲壮な人生を自分に課してまで事を成し遂げようと思ったのだろう。
彼の死に方はいろいろな人物がいる中でも極めて特異だと思われます。
彼の内心とは裏腹に何かがねじれてへんな形になったような、そんな死に方です。決してわかりやすい死ではない。
つまり、死に至るまでの過程が「必然」に思えない。何かがおかしい。そういう違和感が拭えなかったのです。
そして、私は「ああ、人は自分の生き方も死に方も、自分自身ですべてを支配することはできないのだ」と思い至ったのでした。
この江藤新平という人は、おそらく生涯私の関心事として私を縛り続ける要素の一つでありつづけるのかもしれません。
ぜひ読んでみてください。長編ですが読み応えがあります。