【文具】メモリアルに見るデジタルとアナログの間



「デジタル文具」とか「スマホ連動」が当世のはやり。アナログとデジタルの微妙な関係が摩擦と融合を繰り返して混沌としている時代である。こんな現状に対してずっと感じているうまく埋め合わせのできない違和感が個人的にはあって、今回はそのことに触れたいと思う。


■デジタルとアナログのあいだ

デジタルツールの飛躍的発達によって端末ひとつとっても昔の電子辞書の頃に比べればとんでもなく便利に扱えるようになったし、スマートフォンに代表される小型機器はさながら「なんでもツール」の様相を呈している。もちろん私もその恩恵を享受する一人で、その発達のありがたさに疑問を差し挟む余地など全くないと思っている。

メモだってリマインドだってスケジュール管理だって、さらに創作的作業やデータ管理まで、ありとあらゆる...今までパソコンを介しなければ出来なかったようなことの大半はスマートフォンがあれば事足りてしまうくらい便利になった。
大量の書類・画像や音楽データを一緒くたにしてどこでも扱えるというのはほとんど奇跡に近い。

だからといってアナログな道具(アルバム、ノートや手帳やメモ帳など)がなくなったかといえばそんなことはないわけだ。まだまだそのニーズは衰えることを知らない。それが必要とされるにはそれなりに理由があって、しかも個人ごとにその理由は様々だ。紙に直接書いたほうがアイデアが練りやすいとか、記憶に刻みやすいなど。

一方そのアナログツールをデジタルにどうにかして融合させるというアイデアについても様々な提案がなされている。その取組みは大いにすべきと思うし、今後もいろいろな方法論が生み出されてゆくだろう。

それはいい。

しかし、一方でそういうことが「できる」から「せねばならない」というふうに煽るような気分がゆるやかに世間に流れていて(私の錯覚かもしれない)、そこに「帰結」させようという風潮が進行しているのだとしたら、それは少し違うぞというのが私の中に感覚としてある。

どうも私個人の感覚ではデジタルとアナログを闇雲に連動するのは相容れない。どうにか連携をしようとしても、やっぱりどこかで相容れない。いや、色々アイデアがあって、うまく使ってる様子もあるし手法もたくさん生まれたとは思う。それでもどうもそこに何か越えられない境のようなものを感じるのだ。

■ 連動の可能性

いいなと思う例として、ナカバヤシさんの「ビューバム」(http://t.co/WbXrqGlc)という製品はデジアナ融合の面白いアイデアを提案していると思う。「アルバム」という従来型のアナログなツールにQRコードを利用して、収めきれない画像や動画データにアクセスできる仕組みを施している製品だ。

この手法は個人的には一般化する可能性を秘めていると思う。 ただし、アルバムに物理的写真を保存し「ページを繰って写真を眺める」ことに価値を見出しつつ、でもデジタルデータ(アーカイブ)を死蔵したくないという思いをもった、編集好きの(ある意味では凝り性な)人々が増えればの話しである。もちろん、これはそのことの魅力を提案する製品なわけだが。

でも専用アプリを使う企業としての囲い込みだけだと浸透は難しいと思う。
というのは、現行のスマホ連携文具というのはほとんどが「専用アプリ」を必要とする。そしてそれらは個人の趣味嗜好とは関係なく、どんどんサービスが変動してゆく。そのことは多くのユーザーを取り込んでサービスを使ってもらいたい企業の行動として当然なことだが、一方である矛盾を生む。

■デジタルの限界

文具は個人的で趣味的な要素を持つから、例えば手帳のカバーに革製の物を誂えて長く愛着をもって使うなどのように、そういう自分の好みを具現化して所有と活用の満足感を形成する媒体として機能してきたといえる。ものへの愛着はそれを「ずっと」使い続けたい、いつまでも保管しておきたいというある種の思い入れに基づいた意識だ。

だがデジタルにはその部分がなく「活用」の面だけが切り出されている。極限まで「無駄」や「冗長」を削り、必要な要素を抽出したら当然残るのは無形の「情報」であり、それを「活用」することを最大化することを思えばデジタルにまさるものはない。効率的情報の活用に愛着だの思い入れだのという感覚は無用なものになるだろう。

当然なことだが、デジタルはそれを扱う端末という物理的存在を除いては「無形」である。端末へのモノマニアックな愛着というものがあるとしても、それはその機器が持つ機能への期待を超えはしない。電気的にデータの表示や操作が行えなければただの鉄の塊にすぎないからだ。電気を利用できなければ閲覧は愚か、データの存在さえ確認できない無為なものに成り下がる。そこにすべての人生のメモリアルや知識やノウハウや記録などを集約して「完結」ということにはどうあってもなりにくい。

また企業側の一方的なサービス展開に依存するスマホ連動グッズについては、そもそも永遠に「自分のもの」にできない不安定さがつきまとう。それはオンラインストレージサービス(クラウドサービス)などについても同様のことが言える。データの保管はサービス提供者に委ねられており、ユーザーが管理できるのはほんの玄関口までだけなのである。

端末も機械としての寿命や流行に左右される。昨今の携帯端末の流行は1年を待たずに新機種が登場し、その都度機能も大幅に変更され、同じ物を「ずっと」使い続けるなどということは到底できない(できたとしても経年によりどうしても陳腐化する)。そういう企業サイクルのなかに我々は飲み込まれてしまっている。企業の都合で我々の情報管理も創作活動も、メモリアルの保管も左右されているかもしれないという状況に知らんぷりはできないだろう。

だからこそ、自分の裁量と時間軸で管理できるアナログなノートだの手帳の重要性が見直されるし、回帰する人が増えるというのは当然のことじゃないかと思える。アナログなものは一旦取得して活用すればずっと自分のものだ。電気も関係ない。

■ 所有と活用のはざまで

以上までのことを踏まえると、デジタルはサービス提供側に主導権がやや強くあり、アナログは使用する側にほとんど主権があるというコントラストに気がつくことができる。もちろん光のあて方の問題ではある。私はこのことについて、道具を使い続けてゆく上での「所有の主体」がどこにあるのかという観点からみている。

個人の情報が恒久性の担保されない企業サービスに主導権があるまま「所有」できるかという点で、私はやや不安に感じている。そういうスタンスでいる。考え過ぎかもしれない。でも潜在的に人がモノ(もしくは情報)をどのように「所有」したいと願うものなのかということを探っている。

もしデジタルデータの保管方法や保管場所も含めてユーザーが自由にカスタマイズできるのなら、道具を操る主導権はユーザーに移るだろう。そこには「所有感」が生じやすくなるかもしれない。だがそれは本質的な「所有」ではやはりない。管理・活用の域を出ない。

繰り返して言うがデジタルの情報や記録は「活用」することはできる。しかし「所有」はしきれない。電気的な記録媒体やネットワークを介することでしかそれらを扱うことはできず「いつでもどこでも好きなときに」自分の裁量だけで取り扱うということはできない。

電気の供給(インフラの確保)、記録媒体の寿命、端末の有無、電源の確保など、一定条件が揃わなければそれを扱うことはできない。つまりその条件を備えている時のみ有用で便利であるという、至極当たり前の理屈がそこにはある。そもそもデジタルというものは「所有」するものではなく「活用」するもの、ということなのである。


■ デジタルはアナログの補完にすぎない


「所有」に重きを置かず「活用」のみに気持ちを割り切るならデジタル一辺倒の生活は可能だ。現にモノが溢れて苦しい、その呪縛から開放されたいという人々によってデジタル化の思想は強力に推進されてきた。だがそのことに私は諸手を上げて賛成できない気がする。

少し前、GoogleDrive(というよりグーグルのサービス)の規約内容の問題がとりざたされた。Cloudに預けてあるデータの所有権は誰にあるのかということがまじめに考えられなければならない時代なのだ。デジタルの利便性をどこまで取り込むかを考える時「私」は何に重きをおくのかを考えておくことも必要ありそうだ。

私個人の考えでは、デジタルというのはごく短期的な情報活用に最大限の効果を発揮し、長期的にはアナログデータに一日の長があるのではないかと思っている。

デジタルでいくらバックアップを取ろうがコピーしようが、それは短期的に担保される安心感でしかなく、恒久的なものではない。なんといっても紙資料は何千年もの歴史を持っているのだ。データを読むのに特別なツールもいらない。

だから、その性質を理解した上でのアナログ主導デジタル補完というスタイルはまだ当分は続くと思うし、その認識でいいと思っている。

未来においては更に技術革新がおこって記録や人の記憶の概念に変化が生まれる可能性はあるだろう(3億年のディスクなんてものも現れた)。しかしながらまだまだそれらが人々のメモリアルのスタンダードになるとは思えない。

まずはいまの最良を求めてメモリアルのあり方を考え続けていきたいものである。