今回は少しナイーブな話です。
過去のデータを損失してそのショックをどう解釈して違うベクトルに心を向けてやるか、というのがテーマのお話になります。
◯ 過去記事のバックアップ損失
僕は過去のブログ(以前に『思索街道』と題したブログを書いていました)のアーカイブスをWEB上には残していません。
別に隠しておきたいようなそんなだいそれたものではなかったし、特にいま思い起こしてもそれほど重要な記録というのではないのですが、自分の思索の経過としていつかはまとめておきたいという思いはありました。
先日バックアップしてあったフォルダを外部HDDの中に見つけて、中を改めようとするとデータが揃っていない。
アレッと思ってあちこち探して回るも・・・見当たらない。
どうやらバックアップの変遷過程でデータの損失を起こしてしまっていたようです。
どうにか復元できないかとも考えてみましたが、そもそもHDD間を色々と移動させてしまっているし、サブバックアップのCloudにも一部しか残っておらず、どうもだいぶ以前に損失していた事に気がついていなかったようです。
どうしたものか、と途方に暮れてしまいましたが、考えなおすことにしました。
◯ 記録のかたち、アナログとデジタル
僕の場合、日記のような個人的なメモリアルは過去にはPC内のテキストデータに記入する癖があり、それは今も大事に保管してありますが、ある時期を境にアナログなノートブックに手書きするようになりました。
逆のパターンはよくありそうですが、僕はデジタルからアナログへ回帰。
その理由はひどく簡単です。
文具や手帳にハマっていたことが一つと、アナログは手書きすることで脳内にも直接刻み込まれるような副次効果があると実感したからです。キータッチだけでは得られない「書くことの効用」があると気づいたんですね。
ですから、手書き以降の記録はすぐに見つかるし、それ自体は発表を要するものではないので、事あるごとに自分のアイデア出しなどに活用し、また読むことで自分の思考をたどる楽しみにしています。あえてデジタル化などもしていないし、する気もありません。
なんでもかんでもデジタルにライブラリ化するのが当世の流行りですが、僕は書かれたものが「いかなる環境で書かれたか」が重要と思っているので、デジタル一元化思想には反対の立場です。
しかし、デジタルデータとしてのブログ記事や過去のテキストデータなどは電磁媒体に依存しています。それらはバックアップが不十分だとこともなく失われます。
今でこそバックアップは容易に、そして十分にできるような条件が揃っていますが、まだ10年位前まではクラウド環境も不十分でしたし、記録媒体も容量が小さく、なかなか十分なバックアップは取れないまま放置していました。そのツケですね、損失は。
◯ 喪失と創造
今回過去ブログのデータを損失した(のに気がついた)ことで、なんとなく自分が「記録の保管」についてモヤモヤと抱え込んでいたものの正体が見えた気がしました。
過去の記録は自分を形成する欠片に違いないのですが、それはあくまで過去のものでしかありません。それを活かして新しいものを作るきっかけとすることはできますが、それがなくとも「今の自分」は「別の何か」を生み出せるのです。
その創造性の方にこそ本質があるのであり、過去のものに縛られるのは実際のところあまり意味が無いことです。
これは物質社会にあって「モノに囲まれている」ことで、自分の心や行動が制約されていることとも相関しているように思われます。
日本は災害国です。
震災は我々日本人に「喪失」を否応なく現実の光景として提示してきました。以来「喪失」にまつわる諸々をずっと考えてきており、デジタルツールが便利になってその利便を実際に享受しつつも、ただその利便に身を委ねるばかりで良いのかという葛藤を抱えてきました。
もちろん、利便を捨ててすべて原始的生活に帰れ、とか、徹底的にデジタルを強化して万全の武装状態を追求せよなどと、二項対立的に考えることはないのだと思います。ただ今ある自分をどのように表現するのか。この主体性においてのみ答えがあるのではないのでしょうか。
自分で書いた文章や写真、その他いろいろなメモリアルは大切で貴重な「思い出」であり財産です。しかし、それをくぐらせてきた自分自身の肉体と心、そしてそれらを共有してきたいろいろの人々との交流こそが真に不変の価値ある財産ではないのか。
そのことを文章であれ、思い出話をする仲間や家族との対話であれ、どういう形であってもそれを「現在進行形」で紡ぐ「時の流れそのもの」があるかぎり、決して失われることはないんです。そこが電磁的記録とは一線を画する人間の営みなんですね。
◯ まとめ
さて、僕の悪い癖で、話し始めのテーマから大きく精神世界に飛躍してしまいましたが、結局これは自分の中の「損失」に対する慰めの解釈ということですね。あまり気にしないという人もいるでしょうけど、僕は割りと気に病むタイプなので、ある程度自分の中に納得できる理屈をつけてやらないと色々と整理がつきにくいんです。
とにかくもこれからも「時の流れ」を意識しながら様々な表現に挑戦してゆきたいと考えています。